杜野凛世 G.R.A.D.編 考察
はじめに
どうも、普段はカガヤという名前でシャニマスをプレイしています。
担当は摩美々、グレフェスでつかってる編成はストレイ。で、今回初投稿(そもそもブログを書くことがないので、マジもんのやつ)は凛世と、なんか定まってなさをむっちゃ感じるんですが、まぁそれはそれ。
巷で言われているようにシャニマスはコミュがいいからね! 結局全員好きでも仕方ない。
ネタバレ注意です。
というか、コミュを読んで「ぁぁああ゛ああ(奥歯)」となっている人向けに書きます。
さて、まず何故、今回ブログを開設してまで凛世G.R.A.D.編コミュを語ろうとしているのか。
まず、何よりも言いたいのはこの凛世のコミュが今までのシャニマスのコミュの中でもトップクラスに内容が面白い。
と僕が思ったからです。ここ、敏腕プロデューサーの方々においては諸説あるかもなんですけど、いわゆる暗示、解釈の豊富さという点についてはかなりすごいんじゃないかと。
水色感情といい、十二月短篇といい、テクスト外に何か補助的な役割を果たす物語(クロディーヌ・ロンジェ"Love is Blue"、いくつか作品があるのでどれかは特定しづらいが「カルメン」等)を入れつつ話を展開するのが凛世のコミュの大きな特徴の一つとなっているのですが、今回はオリジナルの物語を添えつつ書かれています。
追記:”Love is blue”(原題L'amour est bleu")について、クロディーヌ・ロンジェの方はカバー版みたいです。
オリジナルは1967年発表、Vicky Leandrosの歌唱のものだとのこと。
【水色感情】杜野凛世は音楽との関連から面白い考察が進められているので、その先人たちのブログを貼っておきます。
katariya0116.hatenablog.comneuegeschichte.hateblo.jp
こうした作品を解釈するためには二つの物語を対照させつつ、一つの筋(つまるところ「この話はなんぞや」という結論)を出すというのが、メジャーな切り口です。
つまり、今回では表現する上での根幹となる基本の「あ」(感情、欲)といったものの薄さを指摘されて悩む凛世と、自身の下を離れる恐れから博士によって「あ」しか話せないαと「あ」を失ったβに分断された二人の少女の物語の対応関係に着目しながら一つの考えを練り上げていくことになります。
これをしようとすると、当然Twitterじゃ足りねぇなぁ!
メモの画像をツイに貼り付けてやろうかと思ったんですが、それもちょっと限界がある。
頑張って考える分、多くのPに見てもらいたい。
(あとできればバズりたい。)
多分、これマジでやれば4万字以上の論文が出来ます。いや、冗談だろ、と思うかもしれないですが、ほんとに。使う物差し(多分欲望、アイデンティティに関する哲学なりなんなりの文献)をはっきりさせつつ仕上げていけばフツーに書けます。
ただ、そこまでするのにはちょっと時間ないし、間口も狭くなるし。
この記事のタイトルは「考察」となっていますが、その理由もここですね。
解釈ということなら、僕個人としてはここまでやりたいが、厳しい。かといって、感想というよりはテクストに忠実にやりたい。ならまぁ考察という感じかなと。
とりま、考えてみたわみたいな緩さ+着実に積み重ねていく真面目さみたいなね。
本当にいいコミュだし、シャニマスという枠の中でも、その外でもよくできた物語だと思っています。
だからこそ、その足場にしてもらえるような考察をつくりたいと思って書かせてもらっています。
内容に関するご意見や編集(限界があります…)についてのご意見があれば、僕のTwitter(@kagaya_game)までお願いします。
いや、マジで、次回以降続くかどうかは反響次第だからね…。一人でも感想とか言ってきてくれるとそのために頑張れちゃうので。
それでは考察始めます!
「杜野凛世の『A』(あ)と『I』(私)」
考察をするに当たって、軸となる話をタイトルっぽく挙げると、「杜野凛世の『A』(あ)と『I』(私)」です。
物語中、少女βはAIとして示されています。AIとは"Artificial Intelligence"(人工知能)の意味で、これ厳密に言えばアンドロイドとかロボットとかじゃね? とは思わなかったでしょうか?
「アンドロイド (android、ラテン語:androides)は、ギリシア語のandro-(人、男性)と接尾辞-oid(-のようなもの、-もどき)の組み合わせで、人型ロボットなどの人に似せて作られた存在を指す。」(wiki「人造人間」のページより)
AIという呼称は人型という意味を含まないので、例えばケータイ、コンピュータ、その内部に内蔵されるシステム等々、ちょっと意味が広いです。少女と描写されていますし、言葉の正確性まで考えると上に挙げた言葉の方が適していると思います。
しかし、そこをおしてライターが、物語内の脚本の設定では「AI」と書いている。ここには意味があるのではないか?というのが考察の出発点となります。
(実際、 G.R.A.D.編「she」においては、トレーナーがアンドロイドと言ってますしね。ただ、もう一つ理由がつけれるところがあるので、そこは後で説明します。)
これを「A」と「I」に分けて考えてみます。
・"A"について
これは「あ」と対応関係があると考えてよいでしょう。
凛世の話では表現の基本となる「あ」であり、「AIみたいに正確」だが、「人の心を動かす力」がないという指摘から、彼女に足りてないものがこの「あ」です。他人から見れば「『あ』のない少女」ということですね。
少女の話では、「会いたい」という言葉から生まれた博士の疑念から奪われた「あ」という言葉そのものです。それによって少女αも少女βも「会いたい」という言葉を再び博士の前で口にすることができなくなってしまいます。自身の伝えたい思い「あい(AI)」を表現することができない。ここに関しては後ほど補強します。
彼女は少女の物語において、少女βに感情移入します。なぜ「あ」の音が与えられなかったのか。どうして今、「会いたい」という言葉を伝えることができないのだろうか。
会いたいのはプロデューサー(P)であり、その期待に応えられていない。その期待されていることが自身の気持ち、欲であると考えている。しかし、凛世のしたいことというのは、「プロデューサーのご期待に、お応えする」こと(W.I.N.G.編「アイドル優等生」)なわけです。ここにトートロジー的なエラーがある。
期待(P:自分の欲を持って欲しい)に応えるためには(プロデューサーの)期待に応えなければならない。
これが凛世の中での葛藤ではないかと思います。
she/sheというタイトルの意味についてですが、これを基にして考える必要があると思います。感情的な分離、ということがこのタイトルの広い意味で("I"「私」から分離した二人の"she")、そこから考えると複数の考察が可能なわけですが、僕としては「求められる自分/求められていない自分」だと考えています。
求められる自分は前述の通りで、求められていない自分というのは、「会いたい」を口にする凛世であり、「会いたい」を言えない凛世ではないか。
凛世は十二月短篇で屋上でPと花火を見る描写があります。そこで仕事で途中でその場を離れるPに対してカルメンなら引き留めていただろうか、と考えています。(「紅の踊り子の主題・変」より)
凛世はW.I.N.G.編など含めて、アイドルとしての自分の立場、ファンの期待に応えなければいけないということについては分かっていると考えられます。それがPの望むアイドルであることも。だからこそ、Pに対する特別な感情を素直に吐き出すことに抵抗があるのだと思います。(紅、なんでしょうかね……ここは諸説)
「she/she」においてPの前では心を動かすダンスができたのも、この考察の補強になるのではないでしょうか。アイドルとしての凛世ならばパフォーマンスという形でPへの気持ちを伝えることができた。しかし、明確に(あるいは暗示的に)感情を伝える言葉となるとアイドルとしての彼女から逸れることになってしまう。かといって、それを表現しない自分にもストレスがある。今、そこで懊悩する彼女にとっては、疲れているとしてPに心配され、現場から遠ざけられるのがなによりも辛いわけですね。
それでも前に進まなければならないし、進みたい、というのがキツいところなんじゃないかなと。
・"I"について
これについては、「私」(主体)ではないかと考えています。人称代名詞の主格です。(これ、 凛世G.R.A.D.編のタイトルでかなり意識されていると思います。sheや、heっていうのも完全に)
これ、面白いのは「I(あい、私、意思を持つもの、人間)=AI(あい、愛、人工知能)」なところです。
"I"(主体)が"A"(欲)をもつことによって、「愛(あい)」が形成される。それは、そうした意思をもつという点で"I"(人間)であるが、しかしそれは"AI"(人工知能)である。どう見なすべきなのか?
こういうモチーフというのは割と珍しいものでもありません。多分、皆さんの中でも何か思いつくものがあるのではないかな、と思います。(僕だと、『ちょびっツ』とかなんですけど)
ただ、今回は"A"にも理由づけがしっかりされている点において、より言葉遊びを意識的にやっていると感じます。
少女の話では、少女βが博士が死んだ後に「会いたい」という言葉が言えるようになります。これは博士が死んだことによって、しがらみがなくなったこと、そして博士が恋していた少女αも亡くした今、最後に残ったのは私1人(I)であったことから、「あい」(愛、I)を表現できるようになったのではないか、と考えています。
これはまぁ……悲恋っていう感じですよね。
余談なんですけど、アンドロイドとか、ヒューマノイドにしなかった理由の一つがここにあると考えています。ギリシア語の接尾辞は"-oid"「-のようなもの、-もどき」であるとされています。「あ」を手に入れた彼女はそうした「人もどき」と言えるのか、ということに対する結論であるということです。少女βは博士によって作られた知能(AI)だけれども、しかし人を模した存在ではなく、人なのだ、という解釈が最後まで見てみると主張として考えられます。
これと対照的なのが凛世の話で、別のルートで"I"の捉え方を確立していきます。
それでは、その凛世の変化を G.R.A.D.編「いたかった」「he」から順に見ていきましょう。
凛世、海に行く
ここまでそれなりの量だったので、少しタイトルだけ遊んでみました。まる。
しかし、ふざけて分量が増えたら「目的と手段が……入れ替わってるッッ!」(某新海作品感)ってなっちゃうので、真面目にいきますね……
さて、海、これ大事な暗喩だと思います。
海という言葉から想起されるイメージは結構多様なんですが、ここで関係あるのは感情、またその流れのメタファーということですね。
それは水の可変性、満ち引きと感情の流れのリンク、天候や気候によって影響を受けて表情が変わることなどからイメージされるものだと思います。
これが想像しやすい参考として、寺山修司『寺山修司少女詩集』(角川文庫、16頁)から「断片ノート(1)」を引用します。
この世で一ばん遠い場所は
じぶん自身の心である
生まれてから何回ドアを閉めたか
思いだすたび
ひとは老いる
みんなが一つずつ
自分の海をもてばよいのだ
わかれるとき
どこへでも持っていけるように
寺山は海に対して母のイメージを強く重ねているところがあるので(同、25頁「かなしくなったときは」など)寺山自身の海のイメージまで考えると、他の作品を加味した上で詳細に見ていく必要があるのですが、この作品に関しては前述したメタファーの意味を適用できると思います。
一番遠くて、理解や手の届く範囲外のもの。しかし、何かや誰かと別れる時にはその慰みとなるもの。
深層意識、フロイト風に言えば無意識にあたるでしょうか。感情の底で隠れているそれに、形を与えること、認めること。そして向き合えるようにすること。
それが習慣の中で磨耗していく自身とその体を潤してくれるのだろう、みたいなテーマなのかな、というのが僕の雑感です。
これ、結構少女の物語の最後に通ずるところがありますよね。
少女αは屋敷の外の小屋で寝泊りし、薪を割り水を汲んでその日を営んでいると描写されています。この水、というのも同じような感情のイメージと紐づいた暗喩として捉えていいと思います。凛世が海に行く「いたかった」内に出ていますしね。
凛世は海に向かい合いながら考えます。トレーナーに言われた「あ」がないことへの指摘。パッション、人の心を動かす力の不足。しかし、彼女自身の中にはちゃんと心「あ」があって、丁寧さとしてそれは表現に結実しているんですよね。
僕はこの「あーーーーー…………っ」で心がやられました。
なんなら一人うめいたからね。(きったねぇ悲鳴だよ)
あと、絶対ニコ動で凛世と叫ぶビーバーの共鳴が見れると思います。これは確信です。
凛世を探し出したプロデューサーは凛世に対して思っていることを教えて欲しいと訴えます。
凛世が「あ」のない少女だとは思っていない、その中ではちゃんとした心があってそれが色々な表情を見せてくれることも知っている。
ただ、思っていることが分からない。
これはW.I.N.G.編でもあった問いで、凛世のしたいことが「プロデューサーのご期待に、お応えする」ことという返答で有耶無耶にされていたわけです。(これも紛れもない本心だったからこそ、このG.R.A.D.編なのですが)
凛世は戸惑います。このままでは戻れないと、「あ」がないのだと自嘲します。
しかし、それはPによって否定される。ステージに立つ人間はわがままになってよくて、私の歌を「聞け!」というくらいで良いのだと諭される。
そこで逡巡する凛世、そして流れるカモメのSEはうまい対比だと思います。
そこでの返答こそが今回のキーです。
ここでのPへの返答が、二人の少女の物語との決定的違いです。
疑心で思うようにいかなくなっていた少女達と違って彼女はその気持ちを相手に尋ねられ、そして、素直な気持ちを、「会いたかった」という言葉を口にすることができた。凛世は一人になる前に「あいたかった」という言葉を口にすることができたのです。
そして、もう一つ。
このコミュのタイトルに着目してください。
「あいたかった」でも「_いたかった」でもなく、「いたかった」なんです。
つまり、この「いたい」「いたかった」も「あいたい」の欠落した語としてではなく、そのものの言葉として考察する余地があるということです。
考察するにあたって、この「いたい」という言葉には二重の意味が掛けられていると僕は考えています。「居たい」と「痛い」ですね。
「居たい」というのはプロデューサーの側に、そしてアイドルとしてステージの上に、ということだと思います。そこにいるということが彼女のアイデンティティであり、アイドルである。だからこそ、アイドルは凛世にとって、ただの仕事以上に重い意味を持っているということだと思います。
そして「痛い」。これは、うまく理解されていないことでもあるし、「あいたい」やそれに連なる感情を上手く出せないことの痛みでもあるのだ思います。
痛みは耐えるものじゃなくて。誰かに愛してと訴えるものなんだって、あのひとは教えてくれたんだ。
会えてよかった。ーーこうなる前に出会えて、ほんとうによかった。
この話で思い出したのは、奈須きのこ『空の境界』の「痛覚残留」という話でした。本筋から少し逸れますが、あらすじをぱっとさらうとこんな感じです。
浅上藤乃という不感症の少女がそれをいいことに凌辱された男たちに対して、物を捻じ曲げる異能によって復讐し、暴力は生の実感を生み、やがて暴走する。
それを主人公たち黒桐幹也と、物を殺す「死の線」が視える両儀式が追い求め、死闘を繰り広げる。
浅上は痛みをなくすための治療によって、痛覚そのものを封じられたのですが、一方でそれは不完全に終わり、痛覚が戻る時に能力が発現する体になってしまった。あの人というのは幹也でその時は心配してくれた幹也に対してその感情を表に出すことができなかったのですが、生死の境を彷徨う中で記憶の中で彼に会い、その気持ちを見つけるんですね。
痛いという感情は、すごく掘り下げ甲斐がある話で、傷ついている主体"I"を明確に意識の中に押し上げてくるものであり、また、その感情自体は表に出すことが難しいものでもあります。共有しづらく自身はそのために拒もうとするわけです。
それは心配させまいという感情であり、一種の愛情(広い意味でね。凛世はストレートな意味の愛情とは少し違うんじゃないかと思う部分もあるので)によって遮られるものであると思います。
その感情を吐き出せた。心配させ、色々悩ませてしまうと理解しながら、Pに対して言葉にできた。それは凛世の存在を相手の心に据えるということで、認められていなかった「私」"I"の中の"she"を"he"に認めてもらえたのだということだと思います。
これは今までのプロデューサーのために努力する凛世から、プロデューサーとともに歩んでいく凛世に明確な形で自己の意識が更新されたのだ、と考察することができるのではないかと思います。
前者はその目標、接近対象がPであった部分が強いですが、後者はそれがアイドルとしてのより高みにある自分、という感じですかね。
これは分かりやすくざっくりした感じの意見なので、今までのコミュを見るとそうではない、みたいなこともあるかと思います。ただ、後者はある程度納得してもらえるかな、と。
これは大きな評価基準がPである凛世にとって別の評価軸、ファンの満足度や技術的な達成度などetc…が意識されるため、不安や戸惑いが一番最初にくるのかな、と。今までは如才なくできていたが故に、そして「心を込めたパフォーマンス」が一度否定されたが故に周囲をうかがってしまうのだと思います。決勝後、喜びを表に出したり、しんみりしたりするのが普通であるのに、凛世は不安げな表情を浮かべますが、これがこのコミュの結論であるのだと思います。
ここから更新していく。自分を認めていけるはずです。ちゃんと彼女の中に全ては響いているのだから。
願わくば、Pだけではなく、ファンの反応や技術の部分などで自分で自分を褒められるようになっていけたら……(その中で生まれるエゴが「あ」なんだと思います)。
そして最終的には、幸せになってくれたらいいなあということですね。やはー!
そして、「He」へ
鬼門であるG.R.A.D.決勝を抜けたPたちへの答え合わせ。初めてライブの操作画面でフルで曲を聞いたね…。
現在20年5月15日時点ではまだ未開のジャングル状態で、どないすればええんやみたいな感じですけど、そこを突破すると、二人の少女の物語の帰結と種明かし、そしてPと凛世の物語の一つの節目を迎えます。
二人の少女の結末については前述しましたが、ここでPから疑問が投げかけられます。曰く、
「αに『あ』を残した理由って、わからないままなのか……?」
これに対して凛世は大事な言葉のために残しておいたのだ、と答えます。『会いたい』がいつか、自分の言葉になるように、と。
そのために発せられなければいけないのは「いたい」であり、そこにいる自分と、痛みを持った自分を誰かの中に受け入れてもらわなければならないと思います(詳細は「凛世海に行く」で前述)。
それが「自分のための言葉」、ということの意味ではないかと僕は考えています。
「全部揃っていたら」、言えない言葉がなかったら、その気持ちが尊いものであるということに気づけなかった。
欲を自分の中で押し殺して、葛藤する自身と向かい合うことこそが、誰か(P)を必要としたのではないかと。そういうことなのではないかと思います。
欲しがって、悩んで、やっと言葉になる。
博士は最後に少女βの声「あ」の音を聞いたとされています。
欠けているその音(言葉)は、その気持ちを知っている誰かの中で重みを持ち、汲み取られる価値になる。(少女αが水を汲んで毎日を過ごしているのも、ここに関連づけられるのではないかと思っています。追憶や、回顧、内省、願望、そうした感情がここでは想起されますね。もっとも、悲しいのがその感情のベクトルは自分から自分に向いており、その誰かがその場にいなかったということですが…)
「聞こえておりましょうか?」
これは、この話の後にダイレクトに主語がなく挿入されています。
これ普通の文脈だと、博士の話だと思って、なんか訳知り顔で答えちゃいそうですが、違います。
日常会話で凛世にこの言葉を投げかけられることを考え、凛世Pの皆さんはパーフェクトコミュニケーションをとれるようにしておきましょう。
以下、模範解答です。
この言葉の前に「……え?」という一瞬の戸惑いが含まれていれば加点対象です。
Pは今までも凛世のことをちゃんと考えてプロデュースしてきたと思います。
しかし、その中で凛世の中にまだ言葉にされていない、言葉にすることをためらっている言葉が、そして言葉にできない言葉があることがより強く今回から意識されたのだと思います。
耳をすますという表現はこの前の描写と結びつけて考える必要があります。
最後に
ここまで読んでくださった方、どのくらいいるかは分かりませんが、一人でもいたら嬉しいです……。
全1万字と、これ一つでかなりな分量になってしまいましたが、とりあえず、このコミュがいかに掘り下げ甲斐、語り甲斐があるかお分かりいただけるのではないでしょうか。
流し読みしてくださった方にも、少なくともこのコミュには1万字を書く馬鹿が生まれるくらいには、なんかやばいのだと認識していただけると喜びます。
「シャニマスはコミュがいい」
このフレーズはよく言われるもので、実際、2周年のキャンペーン、SNSや雑誌でのイラストや演出の紹介、声優さん方の心のこもった演技、スタッフさんたちの努力、素晴らしい曲やライブの存在、考察し甲斐のあるゲームシステム、現在急増しているVtuberや実況者さんたちなどなど、
あげればキリがありませんが、そうした色々な方々の努力によって人がきて、その人たちが盛り上げて、また人が来て、ゲームに触れて受け入れられたからこそ、今でも言われている言葉なんじゃないかと思います。
今回書こうと思ったのもそれを知って欲しいということが一番大きいですし、また、そのいいコミュをもっともっと、楽しめるようになったらいいな、自分も含めそうでありたいな、というのがありました。
確実に黒歴史です。ですが、残るものとして何とか見返せるレベルを持った黒歴史になるように頑張りました。
これからこのブログを続けるかは未定ですが、何とか一つこの記事が、コミュを楽しむその足場というか、そういったものになれば僕は満足です。本当にシャニマスのライターさんはすごい仕事をしてくれていると思ってます。解釈違いとか言いません。むしろまた読み返して新しく考えて、自分なりに更新して追い続けていこうかな、と。その価値のあるコンテンツだと思います。
昨今の情勢から色々考えたり、不安になることもありますが、お暇を潰せるものになっていればいいなぁ、と願いつつ筆を置かせてもらいます。
(この記事はAmeba Owndで2020年5月15日に上げた記事を、はてなブログに移行させたものです。移行元のブログは削除済みです。)